陶芸オタク 白石和宏の青春
●1994年7月
白石和宏 作 竹林絵皿
緑釉がどんな食材も引き立て、これを買った1994年以来、うちではほぼ毎日使っているといっても過言ではない。
豆皿や銘々皿各種
左の梨と林檎の豆皿は、かつて「みかわ」が塩を盛るために出してしたものと同じ。右上は蟹の爪、右下は手を合わせた形を表し、仏の掌という意味で「宝珠皿」と名付けていた。
上はカレー皿。個展で1組しか出品されず、まさにうちの家宝。もちろんカレーのたびに使っている。下は、金彩を大胆に施した「みかん陶板」。絵心の極みだ。
個展の礼状を欠かさず送る人だった。しかも和紙に闊達な筆文字と洒脱な絵。人の暮らしに潤いをもたらすという意味において、真の芸術家だった。
丼を作り続ける人生も悪くない
1957年、栃木県宇都宮市に生まれる。ヨチヨチ歩きの頃から絵が好き。小学校の低学年から絵画教室に通い、油絵を始める。4年生のとき、先生のすすめで県の絵画展の「大人の部」に出品。2年連続入選したが、「私も子供の頃は絵がうまかったのだ」と、サラリーマンの父親には冷静な受け止め方をされた。
一言でいえば器用で凝り性の子。プラモデルと昆虫採集に熱中したが、絵の時間も同じくらい幸福だった。美術方面に進もうと思ったのは中学3年の頃。両親は息子を思い、「せめて工業系にしなさい」と言った。
高校では美術部に入部し、赤点をくらいながら絵の勉強に没頭する。その一方で、絵では将来食えないと思い、漠然とグラフィックデザインを志す。現役は東京芸大のデザイン科を受験。そして落ちる。一浪後もあと一歩で不合格。某大学のデザイン科に入学するが、1ミリ方眼を引いたりする実技に心底滅入った。
そうした折り、現役受験の頃から世話になっていた陶芸家の佐伯守美氏の許を訪ね、これが白石和宏の将来を決める。東京芸大の研究室で黙々とロクロを挽く佐伯氏を見て、その姿が頭から離れなくなったのだ。それはストイシズムへの憧憬だったかもしれないという。例えば、死ぬまで丼を作り続ける人生も悪くない。いや、それこそが人生だ――白石和宏は、陶芸を勝手に諦念でくくり、しかもそれに憧れた。
加守田章二みたいだった
通っていた大学をやめ、再び芸大を受験、工芸科に合格する。はっきり陶芸を志し、入学前に1ヵ月間の日本一周旅行を敢行する。北海道から九州まで、六古窯はいうに及ばず、窯場という窯場を見て回ったのだ。
2年生になったある日のこと、鋳金の西大由教授が、「お味噌汁を漆のお椀で飲んでいる人、手を挙げなさい」と言った。挙手したのは1~2人。白石和宏はこれを恥じて、すぐに漆の椀を買いに行った。3年生の頃は、一時期、漆の弁当箱を持ち歩いた。結婚生活が始まっていたからである。
白石和宏が大学院に在籍していた頃、その才能にいち早く注目したのは、茅場町の天ぷら「みかわ」店主、早乙女哲哉氏である。芸大生とそのOBのグループ展「杜窯会(とようかい)」で初めて彼のやきものを見た。
「土の処理がすごくうまいと思ったね。加守田章二みたいだった。ソフトな線なのに、すごいシャープさを感じさせるっていうかな。君はコレ、天性のものなんだから、絶対に失ってほしくないって言った覚えがある」
当時、日本橋三越で「杜窯会」を担当していた菅原雅文氏も、このときの作品をはっきり記憶している。複数出品が多い中で、白石和宏はシンプルな丸碗だけを1組持ってきた。作品名にきっぱり一文字「碗」とだけ書いてきたことも印象に残っている。
食器感覚を磨き抜く
鎌倉山に広大な庭園を持つ料亭として有名な「檑亭」は、敷地内に窯場を持つ。檑亭自身が使う器を作るためである。芸大名誉教授の浅野陽氏が築窯時に相談を受け、その縁で卒業生が窯に入るようになった。
白石和宏もここで8年間、実践的に食器作りを学んだ。作り手の思惑とは微妙にズレるところで、使う器、使える器というものがあることを知った。早乙女氏は、作家白石和宏を端的に評すると、「すぐれた食器感覚の持ち主である」と言う。それは当然ながら、檑亭の8年間で磨かれた感覚だ。
「ただし白石君は、板さんの注文のままには作らなかったと思うよ。それは今の作品を見ればわかる。使い手の注文から何を選択したら、自分のやりたい表現も可能になるか、その積み重ねでやってきたと思う」
作り続けるうちに余分なものが落ちていった。それに反比例して、持ち前の遊び心も活かせるようになった。遊びが本当の遊びになった。食器としての包容力や機能美にまず惹かれ、絶妙な時間差をもって仕掛けの面白さに気づかされる――そうした白石スタイルが少しずつ確立されていった。
この間は材木座に住み、朝夕は変人のように砂浜をうろついた。鎌倉時代から多くの船が沈んだのだろう。毎日のように陶片が採集できたのである。志野、古唐津、古伊万里、そして中国の龍泉窯など、思いがけず貴重な研究材料が蓄積していった。
そして天分が花開く
檑亭時代から、展覧会では何度も苦い思いを味わったが、自分に力がないからだと受け止めた。2年前に檑亭を辞し、定収入がなくなると、陶芸教室で教えたらどうかと心配された。けれども、早乙女氏が店で使っている器などを見て、展覧会へ足を運ぶ人が少しずつ増えたきた。雑誌もポツポツ取り上げてくれるようになった。
そして、昨年の暮れから正月にかけて日本橋三越で開催された「皿々々展――正月早々トロピカル」。白石和宏は短い準備期間で多彩な絵皿を揃え、担当した菅原氏も、引き出しの多さにあらためて感心した。この個展は、初日から大勢の人が詰めかけ、ほぼ完売の成功を収めた。
だが、「この成功に乗っかって行くだけではだめだ」と早乙女氏には言われた。自分でも「皿々々展」は、絵で遊ばせてもらった展覧会だと思っている。形なり質感なり、あるいは民族性なり、食器にはもっと本質的な要素があると思う。近頃は「もっとも普通の食器とは何だろう」と、考え込んだりする。
とはいうものの、白石和宏は、もともと求道者タイプではない。不幸なほど凝り性に生まれた男が、外の世界とコミュニケートする術をやきものに発見した――そんな感じである。凝り性は、どうすれば人が悦んでくれるかを、24時間、中毒のように考えてしまう。ようするに、スケベ―なんだと自分では思っている。
追記
上記の「皿々々展」が開催されたのは1993年~94年の年末年始。94年7月の個展も成功させ、早乙女氏の天ぷら店に集うやきもの好きの間では、白石和宏熱が一気に沸騰した。しかし、その1年後に癌のため入院。1996年2月9日にこの世を去った。38歳という若さだった。