この世の野蛮と静かに闘うために
2019年2月6日の朝日新聞朝刊は、何かの悪い冗談のようだった。一面トップの見出しは、《「暴力は嘘」娘に書かせる 千葉・小4死亡 父親が強要》。言うまでもなく、千葉県野田市の心愛ちゃん事件である。そして、社会面を開くと同種の記事で埋め尽くされていた。正確に言うと、社会面の見出し9本中の6本が以下だった。
「あざ隠すため外出禁止」母、暴行黙認か(心愛ちゃん事件関連)
高校2自殺「いじめ主因」(山口県 男子生徒自殺事件)
防衛大いじめ認定 元学生7人に賠償命令(上級生の暴行・嫌がらせ)
日大前監督の刑事責任問わず(日大アメフト部 悪質タックル事件)
殺害容疑 長男を再逮捕(千葉県 死体損壊・遺棄事件)
入所者絞殺 元職員に容疑(奈良県 介護老人保健施設入所者殺害事件)
このうち末尾2件はあくまでも容疑で、事故である可能性も残すが、それを差っ引いたとしても、たった1日の朝刊で、こんなに数多くの陰湿かつ野蛮な話題が報知されるなんて、「一体全体どういう世の中なんだ!」と朝の食卓で叫んでみたが、家族は誰も耳を貸してくれない。
こんな話をすると、鬼畜は昔も大勢いた、悪逆非道な事件はあったし、陰惨ないじめもあったという、なんの解毒にもならないことを言う人が現れる。たしかに人種や出自、身体障がい、職業などに関する差別は今より酷薄だっただろうし、現代において啓蒙が進んでいることは明白である。
でも、啓蒙って、もしかしたら表面的なマナーを周知しただけなんじゃないのか? 言葉狩りもその典型であるのは言うまでもない。私も無意識に「障がい」と書くことを選んだが、これはどこから見ても形式的なマナーであって、あえて言うが、こうした表現に気配りのない人を厳しく批判し、日本語を次々と抹殺していく人のほうがよほど”非人道的”だと思う。
私が言いたいのは、むしろ無知蒙昧な差別がタブーとなった現代だからこそ、フラストレーションを発散するベクトルとして、不条理で、ずる賢く、手の込んだいじめや虐待、暴行が増殖しているといえないだろうかということである。もはやお定まりの話だが、上記の事件のうち2件でSNSが暴力の武器になっていた。心愛ちゃん事件の記事でもSNSが取り上げられていたが、それは皮肉なことに、SNSがなんら救出の手立てにならなかったことを伝えているのだった。
家族、親戚、地域社会といったシェルターが脆弱な現代で、そもそも孤独な個人を徹底的に孤独たらしめ、絶望の淵へ追い込んでいく一種の「社会活動」が活性化している気がしてならない。その一方で、今の若い人たちは、コミュニケーション能力を重視し、体制に批判的かつ対立的な言動を嫌悪する傾向にあるというから、薄ら寒い思いがする。この種の”コミュ力”が行き着く先は、大政翼賛会やナチスにほかならない、と見識のある学者も言っている。そりゃコミュ力に乏しい少国民やヒトラーユーゲントはいなかっただろうし。
こんなことをツラツラウジウジ考えながらも、結局のところ世の中に媚びていくしか生きる術のない私のところに、ある日、旧知の陶芸家坂本素行さんからA5サイズのやや厚めの封筒が届いた。中にはA4の紙を半分に折り、ホチキスで止めただけの手作り冊子が入っていて、「ご一読後、ご連絡ください」という坂本さんの一筆が添えられていた。冊子のタイトルは『孤独と夜の人文学』とある。
なぜか年賀状も1通入っていた。冊子の作者がこの正月に坂本さん宛てに送ったものと知れ、その名を見て納得がいった。私も何度か坂本宅で会ったことのあるT氏だった(以降ここでは暫定的に哲学者T氏とする。いつ名前を明かすのか、また明かす必要があるのか、それはまだ私にはわからない)。
T氏の年賀状は、日本郵便製の年賀はがきを使いつつも、通信面には余白なく長文が印字されていた。文字は9ポイントほどの小ささ。しかも改行は最後の1カ所しかないので、読みにくいことこの上ない。かつ内容も晦渋である。おそらくT氏にかなりの好意をもっている人しか新年早々こんな厄介な年賀状に付き合う人はいないだろう。それを坂本さんは、私に読んでほしかったのだ。試しに全文を記載してみよう。
迎春 たくさんのことを語り、伝えることができればよいのですが、私の場合これがうまくできません。それでも古代中国の荀子や、もしかしたら啓蒙家ではなかったと思われる14世紀の二条良基。伊藤仁斎やデカルトといった歴史上の人々に共通することは何かなどと考えます。私が思い浮かべる共通項は、これらの偉人たちが、上水道もガスも電気もない生活を送りながら思考し、著述を続けたということです。もしかしたら18世紀から19世紀にかけて活躍したベートーヴェンやヘーゲルもほとんどそれに近い生活だったのではないか。現代の我が国では当たり前に思われる社会的共通資本がない世界。他にも綿花の恩恵を受けて布団があるというのは、そんなに昔からのことではないのではないか。そうした世界にあって思考し、著述した数人の偉人たちとその知的労働を支えた無数の労働者から、いまも希望を授かっているような気がします。堀田善衛によるモンテーニュの伝記の中には、昔のヨーロッパの家屋の冬の厳しい寒さについて記述があります。暖炉、かまど、灯火、火花、光。人類史の中の数人の思考は、まるで懐中電灯のような「前衛」にも思われます。他方私はジャッキー・チェンの拳法や東洋医学のことなどを見聞きする機会もあります。これらの混沌とした考えとそれに伴う趣向が私の活力になりますが、公共財と基本権のことを考えると、この「前衛」の光が世界の人々の中に無数に散りばめられ、これからも継承されていくことを祈念します。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
おそらくこの年賀状を送られたT氏の知人はみな、氏が「永遠に生きるかのように学べ」というマハトマ・ガンジーの格言をそのまま実践しているような人であることを知っている。かつ性格が温厚で、坂本さんいわく「とても利他的な人間」であると認めているから、この文章にペダンチズムを見ることはないのだろう。私も嫌味な印象をまったく受けない。数えるほどしか会っていないが、T氏の人柄をよく知っているからである。
私はかつてT氏から、テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーに代表されるフランクフルト学派の理論をやさしく教授されたことがある。「文明が進化すると世界は野蛮になっていく。ようするに暴力的になっていくんです」と教えられ、かれこれ20年近く頭の中にその言葉が貼り付いているのである。アドルノもホルクハイマーもユダヤ系ドイツ人で、第2次大戦下のアメリカ亡命生活中に、啓蒙された人類がなぜナチズムのような新たな野蛮を生み出すのかを考察したのだった。
さて、T氏の『孤独と夜の人文学』には冒頭に目次が記されていた。全体で6章あり、坂本さんが送ってきたのは、その一部であることがわかった。第1章と第2章(の草稿)だった。第1章は「序論」で「孤独、苦悩、希望」の副題が付く。冒頭の一文は《耐えがたい孤独に苦悩している人たちにこの文章が届けられたとしたならば、この文章の真価が試され、役に立つかどうかがわかる》というものだ。
耐えがたい孤独に苦悩している人たちにこの文章が届けられたとしたならば、この文章の真価が試され、役に立つかどうかがわかる。文学の使用、文学の使用価値、そしてまだ達成されてはいない絶対的な対話空間のような場、そのような願望を私は心に秘かに抱いている。使用価値。文章の真価とはそのような基準で測り、批判されなければならない。複数の文章の中に多少なりとも面白いものがあり、楽しさや気楽さが届けられたらどうだろう。私は無責任に言っているのではないが、しかし何かの専門性に基づいて考えているわけでもない。ただ文章の意味はそのような対話の可能性、理解の可能性によって成り立っている。ボードレールが確か「交感」といったようなことを書いていた気がする。あやふやな記憶だが、どの記憶も私の場合確実なものはない。原始の、と言うよりか、漠然とした心象の素描にすぎないのかもしれない。
2018年5月18日、10月7日、10月31日
ここで最初の短いパラグラフが終わる。ページを繰ってみると、パラグラフごとに日付が記されていた。1日だけでなく、上記のように3日も4日も列記され、ときには年が違う日付が並んでいる場合もある。よく意味がわからない。起稿した日と推敲した日、あるいは加筆した日を几帳面に列挙しているのだろうか。いずれにしても、パラグラフの内容は独立したもので、テーマは有機的につながっているに相違ないが、順不同に拾い読みしても構わないような印象を受ける。アドルノの『ミニマ・モラリア』もたしかそんな本だ。断章というのか、アフォリズム形式というのか、そういうやつだ。
まだ全文が手元にないので、この冊子の構造はさておき、私は何より冒頭の一文に心が強く惹かれた。T氏は手慰みにこれを書いたわけではないのだ。《耐えがたい孤独に苦悩している人たち》へこの文章が届くことを期待し、しかも、なんらかの役に立つものを書こうとしているのだった。
このとき私の頭の中で、フランクフルト学派のテーゼと、2月6日付朝日新聞朝刊と、『孤独と夜の人文学』の書き出しが勝手に三題噺で括られた。そしてT氏宛てにメールを書き始め、坂本素行さんから『孤独と夜の人文学』の部分コピーが送られてきたこと、2月6日付朝日新聞朝刊のこと、20年近く前にT氏から教えてもらったフランクフルト学派の理論が頭から離れないことなどを長々と書き、そして最後に「この世の野蛮と静かに闘う術を教えてください」と打った。
(第1回了 2019.4.3 由良直也)