玩物喪志の記

好文居主人

曹氏易水法製朱墨(右)と胡氏硯形墨

第3回 墨と紙

​その1 中国の墨匠

墨は自ら身を削り、磨り減って形がなくなってなんぼのもので、本来、手元に残って云々されるものではないだろう。だが、書家ではないかぎり大量に消費することはない。私の場合、手紙を書くときくらいしか使わないので、自然と何本もたまってしまう。けれども、その中には、使って形がなくなってしまうには惜しいと感じるものや、ちょっと謂れを知りたくなるものがある。

 

写真はどちらも清末から民国代の墨。右の朱墨には「古龍賓 曹素功六世孫徳酬 仿古易水法製」とあり、曹氏の造りとわかる。また、左の硯形の墨は蒼珮室造。蒼珮室は、中国の墨匠胡開文初代の号である(「蒼珮」とは腰に下げる玉のことのようである)。曹氏、胡氏ともに清代から隆盛になった墨匠で、特に中華民国以降、両匠は市場を占有した。ちなみに胡開文は、現在も墨匠として生産営業がなされている。

 

曹徳酬の朱墨にある「易水法製」の文言は、「易水時代(唐代)の古来よりの秘伝の製法である」というような気概を示したものであろう。宇野雪村『古墨』(木耳社 昭和43年)の中に以下の記述がある。

 

《『墨経』によると唐代には易州、潞州の松煙を使用したという。唐の明帝(玄宗)が四部書を作らせ集賢院に修める外に季節毎に上谷墨三百三十六丸を給したということが『唐書芸文志』に見える。上谷墨は上谷郡産の墨のことで唐代には易州といった。易水の近くであり、今の易県(北京から京漢線で少し南に下がった所)あたりであろう。唐代の製墨の中心地だった。曹素功あたりの墨にも、易水法製などの文字がみられるのはこの故事を指している。》

 

「易水」と聞くと私は、中国戦国時代の末、燕の太子の命を受けた荊軻が秦王政(後の始皇帝)の暗殺に赴くことになったとき、「風蕭蕭として易水寒し」と詠った故事が頭に浮かぶ。つまり、易水という名の川を渡って出立したのである。その易水が書の世界では墨の聖地として名を馳せているらしい。位置は北京のすぐ南。唐の時代、都西安からそんなにも離れた田舎が墨の名産地だったとは少々信じがたいが、松煙の質のいいものを産したのだろう。今は油煙墨が一般的だが、松煙墨のほうが歴史的に古いということだ。

 

もう一方の硯形の墨。戯墨の一種だが、どうやって使うつもりだったのかと思う。ただ、この墨はあまり大きくない。55×30ミリ。普通に手に持って磨ることのできる大きさではある。じつは、もう1面というべきか、1挺あるいは1本というべきか、硯形の墨をこのほかにも所持している。墨で作った印章もある。中国では名匠が輩出した頃に、墨で文房具のあらゆるものを作って楽しんだようだ。質を問わなければ、案(机)に始まって、墨製だけで文房具飾りができる。

盧同煎茶図墨

上は、中国明末天啓年間の朱一涵作の墨を後代に仿製した仿古墨。盧同の図柄は人気があったので、多分清末か民国の頃、昔の型を使ったか、または新たに作った型で仿製墨を作ったと思われる。表がお茶を楽しむ盧同の図、裏は盧同が孟という人物から新茶を贈られたことを謝する38行もの長詩の全文が細字で浮彫されている。

 

明の朱一涵作の偽物と断ずるのか、仿古墨、写しとわかって図柄を楽しむのか、私は後者をとることにしている。墨そのものとしても、明というわけにはいかないが、現代墨と明らかに違い、それなりの時代を感じることができる。

 

盧同はお茶文化成立の草創期に陸羽と並ぶ人物だった。陸羽は『茶経』によって茶文化を確立させた人物だが、盧同は茶が持つ根源的な精神性を、新茶をもらったことに対する感謝の詩で、ある意味陸羽以上に茶文化史上に名を遺した人物といえよう。「一碗、喉吻を潤し、両碗、孤悶を破る」で始まり、「六碗」「七碗」と続く詩句は、茶の神髄として長く語り継がれてきた。台を作って立てられるようにし、硯屏風にしてときどき楽しんでいる。

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​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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