近藤美知絵さんの自然茶をめぐって(3)

​●2005年9月

右 三代山田常山 作 南蛮紫泥宝瓶
左 四代山田常山(山田絵夢)作 朱泥急須
三代が人間国宝になる直前に思い切って手に入れた。20,年間で10回ほどしか使っていない。よほど精神的に余裕があるときにしか桐箱から出さないが、むしろこれを手に取ると、ゆったりとした気持ちにならざるを得ないという薬効もある。

気品のある一服を求めて

天然の素材に個性を視れば、それを最大限に引き出したくなるのが日本人のサガである。この日本文化の根本的なエスプリも現代ではゆとりと定義してよい。

 

多様な自然に身を委ねながらも、そこに何らかの摂理を読み、自らの知性、感性、経験などを統合して、例えば一服のおいしいお茶を淹れようとする。これをすなわち「工夫」という。江戸時代の知識人の間で煎茶が流行したのも工夫が楽しかったからであり、また近藤さんは工夫を自在にこなして見せるから茶人なのである。こうした行為に深く関わるのが道具、特に急須である。お茶の味は、自然・道具・人の三位一体であると言ってよいだろう。


平安時代からの伝統を持つ六古窯の一つ、愛知県の常滑市に山田常山(著者注  三代常山)という陶芸家がいる。この人の作る急須はそれまで日本の陶磁器に興味がなかった人でさえ、一目で欲しくなってしまうほどの魅力を持つ。そこには金銭的な価値は介在しない。常山さんが重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝であるという背景も超越する。「これでお茶を淹れたらどんなにおいしいか」と純粋に思うのだ。


そもそも急須作りはコンマ何ミリの世界である。まず、蓋と胴を寸分の狂いなく合わせるのは当たり前。これは茶葉をじっくり蒸らして開かせるためである。次に、切れのよい注ぎ口。尻漏れするのは見た目に美しくないし、自然の恵みを一滴も無駄にしないという意志がここにある。そのほか把手の位置や茶漉しの穴の数と大きさなど曖昧にできる箇所は一つもなく、すべてお茶の味に直結する。


だが、これらの条件をクリアしてもなお、使ってみたい欲求を喚起する急須と、そうでない急須がある。つまり、機能美だけでは常山さんの急須の魅力は説明できないのだ。現在療養中の父君に代わって、「常山窯」の山田絵夢さん(著者注  四代山田常山)が答えてくれた。


「最後はおそらく気品。あえて言葉にするとそういうものではないでしょうか。それは頭で形をいくら考えても出せるものではありません。お茶の道具であるという意識で作っていると、自然と美しい形になってくる。不思議なものだなァと父もよく言っております」

この絵夢さんの言葉を近藤さんに伝えると、「それはすごい。私がお茶に求めているものもやっぱり気品なんですよ」と言った。


気品のある一服――これは上記の三位一体を超える次元の話である。近藤さんのお茶仲間がふともらしていたことだが、「同じ茶葉、同じ水、同じ急須や湯呑みを使っても、先生の淹れたお茶のおいしさには勝てない」という。そこには何があるのだろう? おそらくこの問いは、大悟した禅僧に向かって、「どうやって悟ったのですか?」と尋ねるに近い。

「そうねえ、私の淹れるお茶に何か違いがあるとすれば、それは愛情の差かもしれません。1葉1葉に対する思いの強さだと思う」


例えば、急須にたった1葉多く入れるかどうかでお茶の味が変わる。山茶を愛する近藤さんにとって、それは当然のことなのだ。また、季節やその日の天候によって茶葉の状態も変化する。そうなれば、湯を注して飲み頃になるまでの時間も変化するわけだが、近藤さんの心の目には、蓋をした急須の中、つまり茶葉の姿、動きがはっきり見えるという。

「だから茶葉と同化すること。それは究極、自分を殺すことになるんです。そうすれば自然の“気”とつながることもできますよ」
 

近藤さんが本格的な煎茶手前を始めると、時間の流れを確実に止める。まるで端座しながら能を舞っているようである。それを傍らで観ているだけでも芳しい香りを感じ、気がつくと心身を弛緩させた自分がそこにいる。そして味わう自然のしずく――この一服はまさしく体に効く、心に響く。

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​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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