坂本素行〈実存の杭を打つやきもの〉(2)
桃山もAIもクソ食らえ
撮影 岡崎良一
白と黑の壺〈揺らふ〉 高21㎝(本文参照)
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円弧による壺 高16㎝
横から見ると、取っ手の接着部がねじれて、タテにまっすぐそろっていない。はたして今回のギャラリー上田で完成品が見られるか。(本文参照)
Bottle 高11.5㎝
坂本素行さんの作品は、当サイトでおなじみの「瑞玉(すいぎょく)ギャラリー」と「ギャラリー山咲木」でも取り扱っています。ぜひお問い合わせ、お運びください。
色を使わず
色の意味を問い直す
◇思うんですが、今回の話って、ここ数年、坂本さんがずっと抱えてきたテーマじゃないんですか?
◆いや、そうでもないよ。
◇去年、山﨑さんのギャラリーで、従来のやきものの文脈や日本的な「味」というものから脱却できたような気がするって言ってたでしょう? あれにはいたく感動したんですが。
◆そう言ったかもしれないけど、前回と決定的に違うのは、それを最初から理屈立てて作ったということだな。自分なりに構造を分析し、構造を作り直して、モノはどうやって作ればいいのかってことを今回の展覧会ではやった。
これなんかも正面から見たら丸いんだけど、断面は波打っているわけね。なおかつ、この形には関係のない巴が入っていたり、そういう複雑なものを入れて、そこに生じた反応によって作品のフォルムを作ることに意味があるわけ。(▶白と黑の壺〈揺らふ〉)
さっきの壺でも、ここの金の飾りとこの黒い突起はダブっているわけよ。このダブっているのは、今の価値観でいうと、どっちかにしたほうがいい、となる。でも、縄文土器や土偶には過剰さがあるでしょう? そういう過剰さをここで試してみたということなんだよね。(▶前ページの白黒ダイヤ柄壺)
◇でも、色は限定していますよね?
◆うん。最近、白黒でやっているのは、そのほうがナマの概念を表現できるような気がするからだね。
◇ああ、ナマの概念には色がないということですね。
◆そう、色が入ってくると情緒のほうに引っ張られて、意志が見えにくくなっていく感じがしてね。逆にさ、色って何なんだろうなって最近思う。
◇黒澤も『どですかでん』を撮ったときにそう思ったかも。
◆うん、だから改めて色というものを問い直すこと、そして無計画に色を使っていったことを反省して、意識的に使うことをこれから先は考えなくてはいけないなって状況に今ある感じかな。あまりにも無節操に色を使っていたなと思うわけですよ。まあ、そんなことを含めて、今日話したことは、ある意味確信なので。
◇へえ、確信ですか。
◆自分の中でだよ。でもさ、確信していても、展覧会が近づくにつれて、だんだんと怖くなってきて、純粋にそっちのほうに向かわずに、当たり前のほうに戻ってきたりするんだけどさ(笑)。
◇揺らぎもありということですね。
◆そりゃまあ、正直なところね。
◇戻ってしまったものは捨てたんですか?
◆捨てないよ。それも今回の作品に含まれてはいるよ。純粋にそれだけで突き進めてきたわけじゃない。ただ、そういった揺らぎのなかでも、今までやっていなかったことをやってみようという気持ちで進んできた。結晶構造に取り込まれた動きのないものではなくて、何かトライしてみようというなかでやったけども、その結果、いろんな失敗も出てくるわけよ。やっぱりみんながやらなかったわけがちゃんとあるなっていうね(笑)。
◇まさに合理的な意味がちゃんとあった?(笑)
◆あった、あった。傑作なのはこれなんだけど。これはさ、形は普通なんだけど、リズム感というものが欲しくなって、まとわりついたような取っ手を作ったんだよ。ところが、これが焼き上がると、まっすぐにならない。要はさ、ロクロのねじれがあるわけじゃん。それが焼くと元に戻るんだよな。(▶環状取っ手の瓶の写真参照)
◇そのねじれは計算できないものなんですか?
◆できないこともないと思って、これから焼くところ。はたしてそれが計算通り、まっすぐになるのかっていう話なんだよ。賭けだよ、賭け。
◇面白い。まあ、今までの作品を見ていると、これくらいのことはクリアしちゃうでしょ?
◆いや、ホントに難しい。繰り返してやればできると思うけど、3回か4回か5回はかかるんじゃないの。とにかく俺はすごく気に入っているんだよね。
◇やきものっぽくないですよね。陶器の素材感がないというか、まるでプラスティックのように見えます。
◆素材感があってやきものらしい、というのも記号のうちかもしれないよ。作る人も観る人も問い直す必要があると思う。素材感に依らずに、モノとして存在感があるのどうかということを。
超絶技巧も理解の範囲
そこに不思議はない
◆要は思い付いたことは構わずやってみようというのがね、今回の展覧会なのさ。バブルのときだったらさ、同じ作品を30個並べても、競って買ってくれるということもあったけども、今はそんな時代じゃないでしょう? そもそも面白くない、そんなことしても。こだわって作って、いろんなものがあったほうが、わざわざ見に来てくれる人も楽しめるんだから。
◇だけど、この取っ手がたとえまっすぐ付いていたとしても、一般の人にはそのすごさがわからない。プロならどうやって作ったのかと思うかもしれないけど。
◆いや、どうやって作ったのかっていうのは、見る人にはあまり意味がないからさ。いいか、悪いか、ですよ。さっき新聞読んでいたら、カントの『判断力批判』に触れて「目的があるからといって美しいとは限らない」なんてことが書いてあったけど、要はこれが直感的にいいと思うか、という世界だよね。
◇ま、縄文もそんなナマな感じですよね。祭祀的な意味があったかもしれないけれども、こんなものを作ったら面白いと思って作っていたフシがある。
◆だから、人間が作る不思議みたいなものがそのまま出ているんじゃないの? 現代はそういう不思議が必要とされない時代だよね。作り方の不思議は欲しがるんだけどさ。「細かいですね」とか「どうやって作ったんですか?」とか。ほんとはそんなもの意味がないのだけど、理解できる作品しか評価しないというかな。だから、直感よりもマーケティングで同じものを作っているわけでしょ。
◇超絶技巧も理解の範囲?
◆理解の範囲。言い換えれば、今は理解できないものはない、というのが前提なんだ。いわば晴れ上がりの世界。陰になる部分がないというふうになっている。だけど、AIに代表されるように、世界が一見晴れ上がっているようであっても、実際わかっているやつなんて、ごく一部のほんとのエリートしかいないじゃない。あとはいずれ仕事を奪われるようになるわけだよ。そうなったらもう、根っこから問い直すしかないじゃん、個人としては。
俺は到底AIと一緒に生きていけないし、スマホさえ使えない。そういうやつが批判的に世の中を見るなら、自分自身の仕事も変わらなきゃだめだよね。自分なりの道筋を作って、自分で作品を作るってことをやっていく。
◇従来のあらゆる記号から外れ、あらゆる結晶構造から逃走するということですね。
◆そうだね。それこそ弥生から六古窯の成立以来、ずっと続いている日本のやきもののあり方というのは、強固な結晶構造をなしていて、なおかつそれは美を目的としたものではなく、用を目的としている合理性で来たと俺は思う。それでさ、その合理性が現代のAIの世界まで続いていくわけだよね。
◇そこまでつながっていく?
◆うん、一気につながっていく。だから、そこに個人としては抗いたいんだ。
◇たとえ蟷螂の斧でも?
◆たとえ蟷螂の斧でも。抗うことが個性になるんだよ。