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玩物喪志の記

好文居主人

ここに紹介するものはそんなたいそうな物ではない。ただこういうものを使いたい、有ったらいいなあと作らせた人がいた、それにこたえ作った人がいた、また自ら工夫した人がいた。そしてこれらを使いこなした人がいた。それらが残っているのを見つけ、先人たちの工夫に驚き感激し、またそれらが忘れ去られていることに残念と思っているうちにいくつか私に近寄ってきた。その一端をご披露してみよう。

好文居主人こと城塚朋和(しろつか・ともかず)

1942年生まれ。76年秋より、青梅市の吉川英治記念館の開設準備に携わり、翌77年3月の開館から2002年まで事務責任者を務める(青梅は梅の里、つまり「好文木」の里である)。98年~2010年、明星大学生活芸術学科(のちに造形芸術学科)の非常勤講師として学芸員課程の科目を講義。その一方で、中国敦煌莫高窟が一般に開放された78年以来、中国をたびたび訪問し、上海魯迅記念館や陶都宜興の作家と交流。茶や道具、文具に関心があり、「玩物喪志」を自嘲す。ここ10年来は、在来品種での釜炒り茶作りを楽しんでいる。

第1回 硯

​その1 「国民文学作家」旧蔵の陶硯

初めて中国に渡ったのは昭和53年2月。敦煌莫高窟見学に出かけるためであった。まだ商店で自由に買い物ができる時代ではなく、決められた友諠商店で買うだけであった。その時蘭州で現代の洮河緑石硯を購入した。中国の硯を本格的に購入したはじめであった。今見るとたいしたレベルの硯ではなかった。その後、端渓硯、澄泥硯、歙州硯などの中国硯を求めた。

 

書家ではないし、自身の懐具合もたいしたことはないので名品というわけにはいかないが、気にしていると少し手元に集まってくる。実用を考えたら、石製の硯がやはり使い勝手がよいが、そうなると私の癖(へき)で、あらゆる材質の硯が気になって仕方がない。手元に寄ってきたそれらの一端をちょっと見てみよう。

 

上写真の硯は河合卯之助(明治22年~昭和44年)作。河合卯之助といっても、もうよほどの専門家でなければ名前は知らないだろう。大正昭和に活躍した陶芸家。京都五条坂の陶業の家に生まれたが、洛外の向日市に窯を築いた。押葉陶器を開発したり、正倉院の唐三彩を研究し、李朝窯の発掘などをした。「赤絵の卯之助」とも言われた。団体に属さず、生涯在野にあって独自の道を歩んだ。

氏の随筆集『窯辺陶話』(昭和18年 不二書房)のなかに「澄泥硯を造る」があり、澄泥硯を作ったことが記されている。近くの川で中国揚子江(長江)の泥と同じような肌理(きり)細潤な泥を得て小硯を作ることができた。「向日窯の澄泥」であるとした。最近の説では澄泥は天然石というのが主流のようだが、卯之助は細泥説で作ったのである。

澄泥の材質論云々はさておき、我が手元にある向日窯硯は軒丸瓦をすぱっと輪切りにした形で、墨池を上端に鋭く三日月形に切ってある。実はこの硯は吉川英治旧蔵品なのである。

 

卯之助さんと吉川先生は昭和10年代『宮本武蔵』を書く頃に親交があった。『宮本武蔵』には轆轤を引く卯之助さんらしき人物が登場する。また戦後吉川先生が青梅に疎開している頃、卯之助さんは青梅に来られ多摩川河畔、御岳の河鹿園に泊まられている。

卯之助さんが見本に作った硯を吉川先生に差し上げ、それを先生は当時吉川家に勤務していた書生氏に上げた。そして吉川先生23回忌(昭和59年9月7日)を記念して元書生氏より私が頂戴したのである。吉川先生の貴重な遺品である。急いで箱を作って、蓋裏にこの由緒を認めた。

​墨で汚れているのがわかるように、時々箱から出して便利に使っている。吉川先生にゆかりのあるものを普段使いすることは誠に気分がいい。

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坂本素行作 象嵌珈琲碗
​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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