玩物喪志の記

好文居主人

中国宜興銘 紫砂急須

第2回 急須

​その1 特別なステータスをもつもの

​再び昭和53年の中国初訪問の話になるが、敦煌見学の帰り、北京で案内された友諠商店で朱泥の急須を見つけた。裏を見ると「中国宜興」の銘があった。そのころは現代中国でやきものといえば景徳鎮の磁器しか思い浮かばなかったので、「え? 土ものもあるんだ」と思った。当然、「宜興」(イーシン)という名も初めて聞くものだった。水滴に丁度いいかと一つ購入した。

 

宜興は中国東部、江蘇省太湖の西北岸にあり、陶業の地は市中心から南に10キロほど行った丁蜀鎮という地区である。その産品は、土の色から「紫砂」と呼ばれてきた。急須が主要産品だが、紹興酒の甕、睡蓮鉢、盆栽鉢など、ありとあらゆる生活用品を作っている陶業のまちだ。景徳鎮が磁都と呼ばれるのに対して陶都と呼ばれる。縁でこの急須の産地、宜興の作家と交流ができた。亡くなった友人の陶芸家、高橋紘さん(明星大学教授)の引き合わせである。

中国では、1978年に始まった改革開放政策で多くの国営企業が倒産の危機に瀕したが、一方で自由に自営で仕事ができるようになった。そうした状況下で、宜興の国営紫砂工藝廠に勤めていたある作家が独立して工房を構えようとした。それを高橋さんが合弁会社を作って応援したのである。間近で見ていた私にも、この地の交流が自然と生まれた。ここで初めて、何も知らずに北京で購入した中国宜興銘の急須と結びついたのだった。

 

中国では宜興の急須はちょっと特別なステータスを持っているようだ。他の工芸作品では作者名は入らないのに、宜興紫砂では急須が作られ始めたころから作家名が入る。時代がずっと下り、革命以降に国営工場となってからは、一般産品の多くには個人の名は入れることができず、中国宜興という銘になった。文革時代はもっと厳しかったそうだ。私が所有する中国宜興銘の急須はその名残であった。

 

その昔、宜興の急須は茶文化と共にあり、明代の急須制作の草創期から当時の最高の文化人、文人(士大夫)が制作に参与し、合作が行われたといわれている。その歴史から来ているため、他の工芸品とは異なって、急須ははるかに高い位置にあった。日中国交回復時代、日本の要人が中国を訪れたり、中国要人が来日したときの土産にも、宜興の名人作家の急須が使われた。最高のものを土産として持たせたのである。

 

文人茶なるものが生まれたころ、文房具の水滴を代用してお茶を入れたという話もある。私が友諠商店で見かけ、水滴に使うつもりで急須を購入したのは、はからずも先祖返りだったわけである。

孟臣銘急須

この孟臣銘急須は早くに日本に入ってきて、長らく煎茶家が愛用していたものだ。見た目は小ぶりで、使いこんだ朱泥の色はつやつやとして美しい。「孟臣」とは、明代天啓年間に活躍した惠孟臣のこと。実在の人物である。しかし、清朝末期ないしは中華民国の初めころまで、延々と、孟臣銘あるいは惠孟臣銘の急須は作られてきた。この急須も、明代のものというわけではない。孟臣という銘だけで見たら偽物ということになる。

ではなぜ、惠孟臣という銘の急須は作り続けられたのか? その理由は、中国南部の福建や広東地方で飲まれる方式、工夫茶(功夫茶)にあるという。

 

小ぶりの急須については、清朝時代の進士、文人で、食通で名高い袁枚(随園)の『随園食単』(青木正児訳 岩波文庫)に武夷のお茶を初めて飲んだ話に出てくる。おそらく武夷の岩茶だろう。高級な烏龍茶だ。《私は以前武夷の茶を喜ばず》の後に続けて、《茶杯は小なること胡桃のごとく茶壷は枸櫞のごとく、一度斟むに用いる量は一両(十匁)もないくらいであるが、口に入れると遽かに咽み込むに忍びない。》とある。茶壷とは急須のことである。

 

こうした小さな急須と茶杯は、中国福建省南部、広東省東部、特に広東潮州、汕頭(スワトウ)地区の工夫茶に使用される道具に適ったものである。惠孟臣を最初に評価したのも、この地方の人たちであった。そもそも惠孟臣は、大壷(大きい急須)より小壷(小さい急須)を作るほうが精妙でうまかった。

工夫茶は、急須壷内に茶葉(烏龍茶)を満たし、湯を注ぎ、蓋をし、それを大きな茶碗または茶海(ちゃはい)と呼ばれる器の中心に置き、上から万遍なく熱い湯をかけ、充分に蒸らす。そして茶碗に小分けで注ぐのである。そうすると香りよく、滋味のある茶を淹れることができる。

 

この熱い湯をかけて蒸らすという行為において、宜興の紫砂の土で作られた急須が大変力を発揮し、さらには「水平壷」と呼ばれる型の急須が必需品として求められた。水平壺とはつまり、上から湯を注ぐとき、浮いたり傾いたり、ひっくり返ったりしないという器形の安定性が必要となったのである。それには、注ぎ口、取っ手、重さのバランスが重要で、直線的な注ぎ口が多い。恵孟臣が得意とした器形であった。

工夫茶を愉しむのに相応しい水平壷という壷形が完成して以来、孟臣という銘を入れた急須が作られるようになり、需要を満たしてきたのである。だから、贋作云々を問うよりも、惠孟臣銘急須は、水平壷の一種の標識と見るのが妥当だ。

 

孟臣壷は日本で玉露が開発された時代と重なり、大きさといい、器形といい、玉露急須の趣味に合致するものであった。そのため、無数に輸入されて煎茶家が愛用した。私の手元にやって来た孟臣銘の急須はこれに当たるだろう。

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​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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