玩物喪志の記
好文居主人
木型萬古急須
第2回 急須
その3 ワケありの愛着
写真の急須の作者は立花龍昇。立花夫妻との交流、やりとりの思い出でが詰まった急須である。立花さんは、木型萬古制作の伝統工芸士であった。
かつて渋谷の東急百貨店本店で日本煎茶工芸秀作展が開かれていた時代(この展示会は今は東京美術倶楽部に場所を移している)、知人の煎茶工芸の作家が出品しているので出かけて行った。その折、会場に入る1階下だったか、エスカレーターで上ったところで実演販売をしていたのが立花さんだった。夫人もそばについていた。
立花さんは煎茶工芸会に属しているわけではないので、秀作工芸展とは関係なく、いわゆる職人さんの実演販売という位置付でやられていた。私は職人さんと話すのは好きなので、実演の手元を見ながら会話を交わした。萬古といえば朱泥の急須がすぐに思い浮かぶが、立花さんは、「あれではおいしいお茶が入らない。私の急須は違う。どんなお茶でも7、8煎は美味しく飲める」と言う。えらい自信だった。
その真偽はさておき、後手で形もいいし使いやすそうだ。木型萬古というのは言葉では知っていたが、作品はこれまで縁がなかったので1点求めることにした。急須は一般には轆轤成形が多い。萬古も朱泥のものは轆轤である。木型萬古は、薄く伸ばした泥板を木型に沿って貼り、胴を作ってから、木型のパーツを1本1本抜いていくという。
次の年も夫妻は来ていた。何年続いただろう。話し込んでは1点ずつ彼の作品を求めた。土瓶風の大きなもの、上手の急須、電熱入りの涼炉などなど。そして、萬古の歴史も改めて少し調べ直したりした。
萬古は江戸中期元文年間に始まったというが、一度途絶え、幕末から明治初期、森有節とその弟が木型を使うやり方で復活させた。そのときは薄作りができる白土を使用した。やがてその白土が枯渇してきたので、豊富にあった鉄分を含んだ今の朱泥の土になり、作り方も轆轤にとって代わられた。
以来、木型を使うやり方は、少数派の伝統工芸として存続してきた。その一人に立花龍昇さんがいたわけである。立花さんの急須は白土ではないが、薄作りで軽く、蓋にはクルクル回るつまみがついている。伝統的なあしらいで「舞つまみ」というらしいが、それが正式名称かどうかはわからない。
秀作展が東急で開かれなくなる前年だったか、夫妻の姿が見られなくなった。係の方に聞くか、住所は知っていたから問い合わせればわかることだが、東急に出かける機会もなくなったので、それっきりとなってしまった。木型萬古は何も彼だけが作っているわけではない。しかし毎年夫妻に会い、話し込んで1点ずつ手に入れることにも意味があったので、以後萬古は求めたことはない。この急須は書斎でお茶を入れるのにもってこいである。7、8煎は大丈夫かどうかは何とも言えない。
初代三浦竹泉作の煎茶器と華中亭道八作の急須
初代三浦竹泉作の煎茶器セットは、煎茶工芸の名手らしく薄造りで品のある急須と湯呑になっている。もう一つの急須(右)は華中亭道八の銘。これは竹泉のあとに入手したのだが、不思議になことに、両者の急須は全く同じ手なのである。
初代の竹泉は、作陶を三代道八に、絵は田能村直入に学んだということだ。だから弟子が作ったものに名を入れる、あるいは生地に染筆するということはあったのかもしれない。急須の署名はどちらも蓋裏なので、道八のものは合わせ蓋の可能性もある。どちらも京焼ならではの気品をもち、使い勝手のいい煎茶器である。
当代竹泉氏(五代)に、また当代道八氏(九代)に知人の煎茶工芸作家を通じて問い合わせ、伺ってみればいいことではあるが、不粋なことをせずに楽しんでいればいいか。
竹根急須と竹製急須
竹の根を利用して作った急須2点(横手と宝瓶形)と竹製1点(後手)。別々の時期に私のところに来たのだが、最初はどれもひどい状態だった。使っているうちにささくれ立ってきただけでなく、使わないまま放ってあったらしく、埃や汚れにまみれていた。宝瓶形のものに至っては底に穴があいて、ボール紙のようなものでふさいで補修し、外側はひび割れが生じている始末であった。
まずきれいに洗い、埃と汚れを落とし、宝瓶は底の余計なものを取った。そして、3点とも漆工芸作家氏のところに入院させた。外側は漆で拭くだけにしてもらい、内側は黒漆で塗り直してもらった。宝瓶は底の穴やひび割れを埋めてもらった。
横手急須は、注ぎ口や取っ手の継ぎ目がどうしても見えない。一体に削り出したのか、うまい具合に根か枝が出ているところを利用したのかよくわからない。とにもかくにも、竹根を使って急須を作らせた人がいて、作った人がいた。それを使って楽しんだらしい人もいた。そういう人たちがいたことに驚き、私も使って楽しめる一人になりたいと思った。