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玩物喪志の記

好文居主人

瑠璃釉紫砂急須

第2回 急須

​その2 日本人好みについて

この瑠璃釉後手の急須には、底裏に鼠文印といわれるものが押され、110の数字がタイ文字で表されている。チャクリー王朝110周年を慶祝するために作られたものだ。すなわち1892年(光緒18年、明治25年)、ラーマ5世(現在は10世)の時代に当たる。これもじつは宜興で作られたものである。

タイ王朝の記念品が何故日本で伝世したのかよくわからないが、日本の煎茶家が使って愛蔵してきたもので、仕覆を作り、箱に納めてある。蓋裏には仙友なる煎茶家が「此の注春紫釉 頗る美麗 形式品有 品位喜ぶベき也 観 遂に一言を識す」(送り仮名他を加えた)と愛蔵するゆえんを記している。注春とは急須のことで、煎茶家はこうも呼ぶ。

 

宜興窯で作られた急須で釉薬がかかるものは珍しい。鈞窯の釉がモデルというが、宜興の紫砂にかけているので、「宜鈞」といったり、「泥鈞」というのはこの種か。ただ、宜興で釉がかかる製品は、海鼠釉といわれるものが一般的である。今は見かけることはなくなったが、製品とすると火鉢がなじみだった。これとはまた違うものか。専門でないのでよくわからない。

 

私の急須と同じ鼠印を持つ作品が、香港の香港芸術館に収蔵されている。それは宜興窯そのものの無釉で、竹節茶壷という竹を模した作りになっていて、上手のねじったつるをつけた急須である。香港芸術館の収蔵品解説によると、紫砂急須は明萬歴年間(1573~1620年)のころタイへの輸出が始まったという。竹節や樹木の幹をかたどったもので、つるは撚り合わさった形をしているものが多かったという。一方で、工夫茶(功夫茶)に使用のため、胎が薄く、文様がなく光沢があって、つるがつく急須も多い。同じような割合でタイへ輸出されたということだ。

 

香港芸術館の収蔵タイ王朝110周年記念の急須は、同じ鼠印でもタイの好みに合ったものとなっている。日本に入ってきて愛蔵され、私のところへ来たものとは趣きが違う。

具輪玉風急須

日本の煎茶家に特に好まれた紫砂急須には、おおまかに4つの様式がある。「具輪玉(倶輪珠)」と分類される器体のもの、「三友居」の銘のあるもの、「萬豊順記」の銘があるもの、そして前頁で述べた「恵孟臣」の銘のあるものである。

 

岡倉天心が『茶の本』の冒頭で、《茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式》とその本質をずばり述べるごとく、茶道は道具を通して茶という日常を非日常化させる美意識であるから、型において茶の湯を追随する煎茶であってみれば、道具への関心は当然の成り行きであったろう。

 

煎茶の場合、その器物に対する愛好は、紫砂の急須、しかも文政渡りといって、文人茶が流行したころ(文化文政時代、1804~1829年)に中国からもたらされたものに対して偏愛の傾向が顕著に見られた。「恵孟臣」銘のもの以外は日本独自の価値観で評価したもので、中国紫砂作家の名品図録には全く登場しない。中でも具輪玉は、日本の煎茶人の間で偏愛甚だしかったものだが、中国側に「なんでこんなものを?」と言わせるものであった。

具輪玉はほぼ無款。形は球状で、注口は鉄砲口と呼ばれるやや上向きに直線的に伸びたものである。言ってみれば、ずんぐりむっくりとした形の急須である。台湾で刊行された『宜興陶器図譜』という専門書では、この具輪玉を巨輪珠とし、「尊敬すべき専家的東洋人(日本人のことだろう)が好む様式」と、何とも皮肉な調子で、この様式を紹介している。

日本の煎茶家の間で絶大な人気を呼んだのは、作為なき粗作の稚拙さが日本独特のわび、さびの風情に通じるものだったからである。人気が嵩じすぎて、中には怪しげな茶銚(急須)といわれるようなものも出てきた。遂に昭和初期には求めるに常識を超えた金額になってしまい、世間の顰蹙を買って、煎茶衰退の一因になったといわれている。

昭和8年のある入札会では、具輪玉急須に9300円の値段がついた。ちなみにこのときの高値は、野々村仁清の藤花文茶壷(現在MOA美術館所蔵、国宝)が18万円、田能村竹田の亦復一楽帖(現在寧楽美術館所蔵、重要文化財)が11万円だった。

 

今の私からすると、具輪玉急須は所持してもあまり楽しめるとは思えない。だが、水滴にしてもいいかと思い、具輪玉急須といってもいいかと思われるもの一つ入手した。ずんぐりした形ではあるが、正確な分類では具輪玉に入らないかもしれないので、「具輪玉風急須」として紹介した。

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坂本素行作 象嵌珈琲碗
​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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