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  天ぷら名人が語る「使えるやきもの論」(4)

​●2003年3月

本稿は、料理人早乙女哲哉氏の仕事哲学を、私由良が聞き書きした『天ぷら「みかわ」名人の仕事』(発行元プレジデント社)から選んだ。本書はすでに絶版。アマゾンでは2018年3月6日現在、6383~8800円でユーズドが出品されている。人にやたらと配らず、たくさん抱えていればよかった!
浅野陽 作「角」
私由良の手持ちの中で、ひときわ異彩を放っている四方皿。ケーキを盛ってみたら案外ハマった。早乙女さんが言っているのは、こういうことかな、と。(娘の9歳の誕生日だったので、そのロウソクが刺さっています)

 「なんか深いぞ……」がよい器

使えない、使えるっていうことになると、ギリギリの器を使うという楽しみ方もあるけどね。規格外れの器ね。それが使えないというのは、結局自分に遊ぶ力がないということなんだね。


もちろん、使えるような器を作ろうとして結果として使えないっていうのは論外さ(笑)。だけど、覚悟を決めて使えないような器を作る作家もいる。その場合、こっちにもそれに負けないくらいの遊び心がないと使えないんだね。で、逆にハマりきっちゃうときもあるもんねえ。「こんなもの食器かよ?」って一見思うような器が怖いくらいにハマることがある。それは作家のほうもちゃんと遊んでいるということさ。要するに中途半端な器がいちばんダメなのさ。


それよりも古伊万里とか李朝っぽい感じの器があるでしょ? 青山あたりにありそうな和食屋さんね(笑)。ああいうところで使っている器のほうが汚くてイヤだね。一見趣味人がそろえたような感じなんだけど、ちょっと熱い料理を盛るとゴミが出てきそうなんだよ。染付でも滲んでるような染付でさ。それは古色というのじゃないんだ。たんに汚いんだ。


要するにね、きれいじゃなくちゃダメなのよ。骨董でもちゃんとしたものはきれいなんだよ。最初から汚いものは汚いんだよ。そういうのは骨董まで行かない、ただの古道具。なんか素人はこんなもの使っていれば喜ぶだろう、みたいなねえ。結構多いでしょ? 骨董品まがいを使ってる店。要するにホンモノっていうものがわからないから、みんなそれっぽいもので誤魔化しているんだね。


現代陶器でもあるよ。展覧会でオレはよく「これは土の固まりから一歩も出ていない」って作家に直接言うんだよ。ロクロが回れば土は勝手に広がっていくから誰でも容れ物は作れます。でも、自分の意志が反映されていないもの、自分の魂が乗り移っていないものは、容れ物にはなっていても器にはなりえていない。そういう説明は若手の作家によくするけどね。


作家は「宇宙観が見えるものを作りたい」とかってよく言うけどね。うん、見込みとかにね。でもそれは、なんつーか、そのまま伸びていけば宇宙観が見えるかな、ってくらい微妙なものなんだね。単純に大きいとかじゃなくてさ(笑)。


要するにね、作る過程において気分が乗り移っていれば、七分で止めていても、その先の大きさが見える。食器としていちばん使い勝手のいいところで終わっていても、気分はその先広がっていくんだね。ただロクロを回して大きくしたんじゃ、そういうものは見えないのよ。


だから、お茶の茶碗一つ見ても、例えば石黒宗麿さんの作った茶碗とかはね、まるで深い井戸を覗くようだよね。たかだか10センチくらいですよ、見込みの深さは。それを見てもね、「なんか深いよ、これは……」っていうのがあるのよ。だから、ぐい呑みでもなんでも自分が買うときには、常にそういう大きさを持った器が欲しいなと思うわけ。なおかつ私の場合は、お客さんのその日の気分みたいなものを察して、これを使えば喜ぶだろうなあって、そういう食器ぞろえをしているでしょ。あらゆる種類のものは買ってあるわけですよ。


かといって、うちなんかほとんど器の説明はしないよね。暗黙のうちに遊んでいるよね。だから最初はわかんない人もいるけどさ、何回か来ていると、「ほんとにお宅はいい器ですねえ」って言うんだよ。こっちが遊んでいればお客さんに伝わっていくんだよ。自然自然とね。器は言葉の代わりになるからさ。そういう遊びっていうのは結構大きいの。

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坂本素行作 象嵌珈琲碗
​坂本素行 作 象嵌珈琲碗
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